まさに戦国時代、英雄がひしめく時代に家康の側近として活躍したお坊さんがいます。
それが、天海。
その正体は、落ち延びた明智光秀だったのではないかという噂も。
その天海の生涯を調べてみました。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。
それでは、どうぞ!
目次
天海和尚とは?
かの有名な戦国武将、徳川家康に仕える僧がふたりいました。
その僧とは、天海(てんかい)と崇伝(すうでん)。
ふたりは、ライバル同士。
いつも、お互いに強く意識し、張り合っていました。
特に有名なエピソードは、家康が亡くなった時に、家康の神号として、天海は「権現(ごんげん)」を、崇伝は「明神(みょうじん)」を主張しました。
権現とは、仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れた日本の神様のこと(神仏習合)。
明神とは、神様の尊称の一つで,仏教側からみて、神威が明らかなこと(唯一神道)。
この時、ふたりは最も激しく対立しましたが、天海はあくまでも、家康の遺言だから権現だと主張し、一歩も譲りませんでした。
結局、この主張がとおり、権現として家康は日光東照宮に祀られました。
この時、天海は81歳、対する崇伝は47歳。
血気盛んな天海の執念に、崇伝もあきれ果てたというお話です。
天海が、いつ生まれたのか?
諸説あり定かではありません。
しかし、11歳の時、会津で出家。
比叡山に入り、台密(たいみつ)を学びます。
そして、園城寺(おんじょうじ)、興福寺(こうふくじ)、足利学校(あしかががっこう)へ通いました。
その後、武田信玄(たけだしんげん)の招きで、甲斐(現在の山梨県)を訪ね、それから武州の川越・喜多院(きたいん)、下野国(しもつけこく:現在の栃木県)・宗光寺(しゅうこうじ)の住職を歴任するなど、着々と経歴を積み重ねていきました。
1609年に家康によって、権僧正(ごんのしょうじょう)に任ぜられたときは、すでに70歳を超えていました。
しかし、めちゃくちゃ健康な天海。
壮年期のような若々しさを保ち続け、それ以来、仏教の論議や祈祷をもって重用されるようになりました。
特に、家康が病気で倒れた時に、天海の祈祷が効果を発して病が治ったという話も残っています。
病を治しちゃったものですから、家康もご機嫌。
天海は家康の熱い信任により、川越・喜多院を与えられます。
さらに、天海パワー炸裂。
関東の天台宗の興隆と発展を目指して精力的な活動を展開します。
その時に、関東天台宗法度が発せられましたが、これがやばい。
関東に比叡山延暦寺の更に上をいく特権を認める本寺を定めるという内容だから、めちゃくちゃやばい。
その全権が喜多院、つまり天海に与えられたのです。
全権を与えられた天海。
関東の天台宗で、おそれるものは何もない状態。
着々と宗勢を拡大していき、その地位を揺るぎないものとしていきます。
そして、家康が亡くなった時には、そのお祀りの仕方で、ライバル崇伝の明神案を退け、権現案で東照大権現・家康を実現しました。
その後、秀忠の時代には、念願が叶い、関東天台宗の本山を上野に建立することができます。
名前を、比叡山に対応して、東叡山寛永寺円頓院(とうえいざんかんえいじえんどういん)と名付け開山しました。
かの有名な上野の寛永寺です。
亡くなったのは、108歳。
寿命が短い時代の中で、めちゃくちゃ長生きしました。
天海とは?~まとめ~
天海についてまとめてみました。
1.生まれは1536年と言われているが不明。
2.11歳の時、会津で出家。
3.比叡山へ入り、多くの学びを得る(台密等)。
4.1609年に家康によって、権僧正に任ぜられる。
5.川越・喜多院を与えられる。
6.関東天台宗法度が発せらる。
7.関東の天台宗では無敵状態。
8.権現案で東照大権現・家康を祀る。
9.東叡山寛永寺円頓院を建立(関東天台宗の本山)。
10.108歳で亡くなる。
ライバルの崇伝と比べて、どちらかと言えば、クリーンな感じの天海。
沢庵和尚が、紫衣事件(しえじけん)で崇伝に糾弾されましたが、天海が家康へとりなし、羽州への流罪という刑を軽くすることに力を発揮しました。
沢庵和尚も有名ですが、天海和尚も徳高き人であることが、このエピソードからもうかがえますね。
平均寿命がめちゃくちゃ短い時代に、100歳を超える寿命であったのは、ストレスのない地位だったから?良い食べ物を食べていた?やりたい事をやっていたから?
今、生きていたとしたら、長寿の秘訣をぜひお聞きしたいです。
最後までお読みいただきありがとうございました。