お釈迦様が大好き。
この言葉が一番似合うお坊さんが明恵上人です。
求める心は修行で耳を切るほどの激しさ。
その実直な姿が庶民に崇拝されました。
明恵上人の生涯について、調べましたので最後まで読んでいただけると嬉しいです。
それでは、どうぞ。
目次
明恵上人とは?
紀伊の国(現在の和歌山県)で1173年に生まれました。
8歳の時に両親を亡くしました。
そして、母方の叔父さんである、神護寺(じんごじ)の上覚(じょうかく)に師事し、16歳で出家・受戒(じゅかい)しました。
その後、尊勝院(そんしょういん)の弁暁(べんぎょう)・聖詮(せいせん)について、華厳(けごん)・俱舎(くしゃ)を、興然(こうねん)・尊実(そんじつ)に密教を、栄西(えいさい)には禅を学びました。
21歳の時に、神護寺の別院である栂尾山(とがのおおさん)に住み、尊勝院にも赴きましたが、寺僧間の争いに嫌気がさして23歳で離れました。
そのあとは、故郷と神護寺を行き来し、華厳宗関係の学びを深めていきました。
明恵上人は、お釈迦様が生れたインドを訪ねてみたいと思っていました。
願いはインド仏跡参拝で、準備もしていましたが、最初の計画は春日明神の神託により断念しました。
次に計画を実行に移そうと、インドでの旅行行程まで作成しましたが、急病で念願を果たすことができませんでした。
そこで、後鳥羽院から栂尾の地を賜ると弟子をともなって移り、高山寺(こうざんじ)を建てました。
果たせなかったインド参拝をこの地でかなえようとしたのです。
お釈迦様の遺跡になぞらえた諸堂や仏像を、次々と整備していきました。
明恵上人は、承久の乱の際、公卿の妻をかくまった縁で、北条泰時(ほうじょうやすとき)の帰依をうけるようになります。
この時、明恵上人は一度つかまりましたが、その人間性と学識の豊かさが買われて、かえって親交が持たれるきっかけとなりました。
また、法然の選択本願念仏宗(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)を厳しく批判する摧邪輪(ざいじゃりん)を書き、戒律を重んじて南都仏教(なんとぶっきょう)の復興を図りました。
お釈迦様を求めて、名利を厭った高潔な行いが、多くの庶民から尊崇されました。
お友達としては、北条泰時、九条兼実・道家、西園寺公経(さいおんじきんつね)、藤原定家(ふじわらのさだいえ)、安達景盛(あだちかげもり)という朝廷や貴族のほか、笠置寺(かさぎでら)の貞慶(じょうけい)、松尾寺の慶政などの名僧・高僧もいました。
また、お茶の栽培でも貢献しています。
禅宗の師である、栄西よりお茶の実を分けてもらい、栂尾に植えて、栂尾茶を栽培・広めました。
明恵上人とは?~まとめ~
明恵上人について、まとめてみました。
1.紀伊の国に生まれた。
2.神護寺の上覚に師事、16歳で出家。
3.尊勝院の弁暁・聖詮について、華厳・俱舎を、興然・尊実からは密教を、栄西には禅を学ぶ。
4.インドへの旅行計画をたてたが断念。
5.後鳥羽院から栂尾の地を賜り高山寺を建てる。
6.法然を厳しく批判する摧邪輪を書き、戒律を重んじて南都仏教の復興を図る。
7.お釈迦様を求めて、名利を厭った高潔な行いが、多くの庶民から尊崇される。
8.朝廷・貴族・名僧のお友達が増える。
9.栂尾茶を栽培・広める。
10.1232年亡くなる。
いかがでしたか?
明恵上人の求める心は激しく、20歳の時には修行をより厳しくする為に、自分の耳をきったという伝説もあります。
物凄い求道心ですよね。
そんな真っ直ぐな炎のような生き方をした明恵上人。
そりゃあ。多くの庶民から崇拝されますね。
お釈迦様が大好きな明恵上人。
亡くなった時は、真っ先にお釈迦様のところへ訪ねに行かれたことだと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。