世の中の仕組みが、どんなに反対の考えであっても、本当に人のためなら
ば、やらなくてはならない事がある。
そんな男前の背中を見せてくれたのが行基です。
政府からの逆風もなんのその。
法律に逆らってでも、やるべきことをつらぬいた。
そんな行基の生涯をまとめてみましたので、読んでいただけると嬉しいです。
それでは、どうぞ!
目次
行基とは?
行基は668年、百済(くだら)・王仁(わに)氏の血筋の家に生まれました。
14歳で出家、24歳の時に飛鳥寺(あすかでら)で授戒し、法相宗(ほっそうしゅう)を修めました。
やがて、薬師寺(やくしじ)でも法相の教学を修め、山林修行もあわせて積みました。
山林修行は、たいへんですよね。
山って、夏も冬も結構さむいです。
粗衣だと、めちゃくちゃ寒いので、いつも冷たい水の滝にうたれているような、つめた~い感じが想像できちゃいます。
その後、実家に戻ると自宅をなんとお寺に変えてしまいます。
これも凄い、最近DIY流行っていますが、その先駆けですね(驚)。
そのお寺は、家原寺(えばらじ)。
修行は、粗衣粗食の中で積みました。
そして、教えを庶民に広く伝えていくために、和泉(いずみ)の国をはじめ、畿内各地に次々と布教道場を開いていきました。
当時は、農民達が厳しい納税に苦しんでいた時代。
そのため、農民のなかには、お坊さんになる者が多かったと言います。
生きていくためには、仕方のない選択であったと思います。
そこで、朝廷は僧尼令(そうにれい)を発布して、これを厳しく取り締まり、その風潮を助長している張本人として、行基を徹底的に監視していました。
しかし、弾圧にも負けません。
行基は、そんな弱い存在ではありませんでした。
次々と道場を開いていきます。
めちゃくちゃ精力的に努力を重ねていきました。
また、道場以外にも橋の修築、池や堀、道路の開通など公共事業も精力的に実施していきます。
これがすごい。
そのなかで、職人のスキルも向上。
庶民の育成も担っていたのです。
世の中のためになることは、何でもやった感じ。
まるで、レオナルドダビンチ!の様ですね。
そのため、信望や名声はますます高まります。
こうした行動を聖武天皇(しょうむてんのう)は高く評価しました。
そして、のちの恭仁(くに)京、紫香楽(しがらき)京の造営、国分寺・国分尼寺の建立、廬舎那仏(るしゃなぶつ)の造営などの際に、この高度な土木技術と彼に従う優婆塞(うばそく)たちの労力が積極的に活用されていきました。
745年には、仏教界の最高位である大僧正(だいそうじょう)に任命され、封戸百戸が与えられる待遇を受けました。
しかし、こうした地位や財産には関心を持たず、80歳で京都右京の菅原寺(すがわらてら)に隠居。
ここの地で、82歳に亡くなりました。
お墓は、生駒の竹林寺にあります。
行基がもとめていた姿は、民衆へ法相宗を広めていく布教の実践者の姿と言えます。
宗祖の道昭(どうしょう)に受けた影響の根本は、利他行の思想でした。
行基とは?~まとめ~
1.百済・王仁氏の血筋の家に生まれる。
2.14歳で出家、24歳の時に飛鳥寺で授戒。
3.法相宗を修める。
4.自宅を寺(家原寺)に改造。
5.僧尼令の中、道場を広める。
6.聖武天皇から認められる。
7.大僧正になる。
8.まさに利他行の実践の人でした。
9.82歳で亡くなる。
法律は国を治める上で大切です。
その様な逆風の中でも、庶民の苦しみを理解し、幸せになって欲しいと願う行基の行動は、まさにリーダーシップの見本を示していると思います。
だって、お坊さんのTOPにまでなった方なのですから。
最後までお読みいただきありがとうございました。