鎌倉時代の初期に、ある実験が行われました。
なんと、人造人間を作ろうとした人がいました。
その名は、西行。
でも、研究はつまらなくなってやめてしまったそうです(笑)。
そんな、伝説のある西行。
エリートである北面の武士の地位も捨てて、全国を旅します。
その中で、得たのは何か?
西行の生涯とあわせて、調べてみましたので、お読みいただけると嬉しいです。
それでは、どうぞ!
目次
西行とは?
平安末期の時代に生まれた西行。
実は、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)を先祖にもつ名門武家である、佐藤康清(さとうやすきよ)の子供として生まれました。
名前は、義清(のりきよ)。
歴史でも有名な、鳥羽院の北面の武士として活躍しました。
しかし、23歳で突然出家します。
源平盛衰記では、既に妻子があったにもかかわらず、身分の高い女性に失恋したためとか、西行物語では、身近にいた者の突然の死を目の当たりにして、無常を感じたためとも言われています。
まっ、きっかけは何かがあったとして、出家後は家も家族も、また武士としての出世も財産も、すべて捨てて漂泊の旅に出たのです。
鞍馬(くらま)や大原、嵯峨(さが)などを巡り巡って、山の中で暮らしながら修行をしました。
そして、26歳で京を離れ、伊勢、関東、東北、中国地方、四国、九州、北陸、信州、熊野などへ旅のまた旅を続け、日本全国の行脚となりました。
また、仏道修行で数多くの自社を参詣し、熊野なども、たびたび訪れ、山岳修行を重ねています。
この様な西行の生活を支えたのは、歌でした。
そして、歌を詠むことは、西行にとってさとりへの道でもありました。
以降、歌僧として、千載(せんざい)和歌集、新古今(しんこきん)和歌集に多くの歌が入選(掲載)されています。
また、約1500首を納めた山家集(さんかしゅう)など、約2000首あまりの西行の歌が残っています。
その内容は、平易な言葉で淡々と歌う中で、厳しい修行の成果である、さとりの境地の様な趣を奏でる、気ままな心境が読み取れます。
そして、個性的な表現で、美や精神的な清らかさを詠んだものもあります。
西行の生涯は、どこかのお寺に留まったり、門弟を育てたりすることはなく、漂泊の歌僧のまま、河内国弘川寺(ひろかわでら)で73歳で亡くなりました。
西行は、宗派を超えて愛されました。
明恵上人伝記では、明恵が深く崇めていたり、室町時代には、連歌師(れんがし)の理想像となったり、謡曲(ようきょく)では、幽玄の極致を表す人として、江口、西行桜、松山天狗の主人公に、江戸時代では、浮世絵の題材として好まれました。
つまり、西行が愛されている理由は、日本人の人生観や美意識を具現化した代表としてのイメージが強い存在なのです。
ねかはくは、花のしたにて、春しなん、そのきさらきの、もちつきのころ。
いかにも西行らしい歌だと思います。
西行とは?~まとめ~
西行について、まとめてみました。
1.佐藤康清の子供。
2.鳥羽院の北面の武士として活躍。
3.23歳で突然出家。
4.26歳で日本全国を行脚。
5.山岳修行を重ねる。
6.歌僧として認知される。
7.千載和歌集、新古今和歌集に多くの歌が入選。
8.約1500首を納めた山家集など、約2000首あまりの歌を残す。
9.河内国弘川寺で73歳で亡くなる。
いかがでしたか?
西行の人生は、まさに歌がすべて。
富も名誉も家族さえも捨て、ひたすらに歌を求めて、全国を旅しさとりを得た西行。
その極めた心境は、時代を越えて、日本人の心をとらえ続けています。
富や名誉、特に家族を大事にしたい自分としては、なにか矛盾を感じつつも、爽やかな、思い切りのよさ・かっこ良さを西行に感じました。
最後まで、お読みいただきありがとうございました。