玄奘という中国(唐時代)のお坊さん。
めちゃくちゃハンサムで長身。
なんと、2.1m。
そんな、お坊さんが仏教の発展の為に、命がけでインドまで旅をして、尊いお経を手にしてきました。
帰国したら皇帝から、あなたはこの世の宝だとまで言われ、国民の英雄扱いを受けます。
国民から、キャーキャー言われれば、どんな人もいい気になってしまうところが、玄奘は栄誉や賞賛を受けても遊ぶこともなく、黙々と余生を仏典の漢訳に使い終わる頃に亡くなりました。
そんな人、めったにいません。
だからこそ、今でも名前が残っているのだと思います。
そんな、玄奘の生涯をまとめてみました。
最後まで、お読みいただけると嬉しいです。
それでは、どうぞ!
目次
玄奘(三蔵法師)とは?
玄奘(げんじょう)と言えば「西遊記(さいゆうき)」の「三蔵法師(さんぞうほうし)」として有名ですね。
西遊記に登場する、お猿の妖怪・孫悟空(そんごくう)、河童の妖怪・沙悟浄(さごじょう)、豚の妖怪・猪八戒(ちょはっかい)を一緒に引き連れて、旅の途中でいろいろな邪魔をする敵を倒しながら、天竺(てんじく)までお経を取りに行く物語。
堺正章(さかいまさあき)が孫悟空役で登場したドラマ、小さい頃によく見ていました。ワクワク・ドキドキの世界。
あくまでも架空のお話ですが、玄奘は実在した唐代初期の頃の僧侶です。
玄奘(三蔵法師)は、なぜ天竺まで旅をしたのか?
玄奘は、西暦602年に生まれ、兄のいた洛陽(らくよう)の寺で13歳で出家し、後に長安(ちょうあん)<今の西安(せいあん)>の大覚寺(だいかくじ)というお寺で仏教を学ぶようになりました。
でも、師匠によって、言っている事や教えの内容が違うのです。
まさに、ブレブレの教えの状態。
多くの疑問を解決することができませんでした。
本場インドの仏教典を取りに行き、学ばなければダメだと強い決意をしました。
しかし、当時、唐では国外への旅行は禁止されていました。
でも、629年、玄奘は国禁(こっきん)をおかして、当時天竺(てんじく)と呼ばれていた北インドに仏教典を取りにいく、求法の旅に出ました。
年齢は27歳。
自分が同じ年の頃何をやっていたのか、比較すると、とてつもない旅をしていたのですね。まさに命がけ!尊敬しています。
タクラマカン砂漠を越え、天山山脈(てんざんさんみゃく)を越え、パミール高原を経由してはるばる北インドに入る。「西遊記」」さながらに厳しい旅でした。
唐の時代、西域(さいいき)と呼ばれる地域には、100KM間隔くらいに30程度の国がありました。
国と言っても、日干し煉瓦が数メートルの高さに積まれた塀で数キロ四方を囲い込んだオアシス都市でした。
どの国も天山山脈の南麓にあり、雪解け水が流れ出て、オアシスになっていました。
その国は、有力者がオアシスを守り、自分の所有として国王を名乗っていました。
玄奘が、最初に訪れた国は高昌国(こうしょうこく)という国です。
ここに麹文帝(きくぶんてい)という仏教に詳しい王様がいました。
ここから先は危険な西域!大事な存在のあなたを旅には行かせられない。
どうか、ここに残って、仏法を庶民へ教えて欲しい、とお願いされました。
玄奘は、天竺へ行く気持ちは変わらない。
でも、王様は行かせない。
そして、玄奘は断食を始めて、死の寸前までなり王様に訴えました。
王様は、玄奘の熱意に負けて、旅に送り出すことになりました。
その強い意志は、他の30国にも伝わりました。
どこに行っても、玄奘は人気で、1か月、2か月と滞在しては、求められては、仏法を教えて行きました。
天竺へ行くまでに、膨大な時間がかかったのは、それが原因でした。
西遊記にでてくる、行く手を阻む妖怪たちは、実は玄奘に惚れ込んだ国王たちがその正体でした。
みんな、玄奘が大好きだったのです。
その中で、旅の始めの頃に、玄奘はあるお婆さんに出逢います。
ぼろぼろの布にくるまった感じの身なりのお婆さんが玄奘に声をかけます。
お坊さま。
実は、今この様な病気になっています。
腕を見ると、膿が湧き、腐りかけている様子。
老婆は言います。
この地方では、このような病気のとき、家族が膿を口で吸いだしてもらうと助かると言う、言い伝えがある。
家族にお願いをしたら、とんでもないと言われ、家を追い出されてしまった。
このまま、死を待つだけと思っていたら、目の前にお坊さまが通りかかった。
なぜか、お坊さまに膿を口で吸いだしてもらったら、治りそうな気がした。
お願いできないか?
とんでもないお願いです。
これから天竺にお経をとりに行こうとしているのに、ここで命を落とすかもしれない。普通だったら、大事な目的があるのでと言い、断ると思います。
でも、玄奘はしばらく考えたのちに、実際に老婆の腕に口をつけて膿を吸いました。
その瞬間、老婆が観音様に変わりました。
そして、こう言いました。
玄奘、あなたの覚悟はわかりました。
これからの旅で、どうしても自力では助からないことがあれば、これから教えるお経を一心不乱に唱えよ。
そうすれば、その声を聞き、お前を助けに行く。そして、この旅の間守ってあげます。
そういって、玄奘に伝えたのが、般若心経(はんにゃしんぎょ)でした。
このお経だけは、後世に伝えたい、とお釈迦様が願ったお経です。
インドでは、最大の仏教僧院だったマガダ国のナーランダ僧院で5年間学びました。シーラバドラ(戒賢<かいけん>)の弟子となり思う存分、勉学に励みました。
さらに、玄奘はインド各地を旅して仏教のさまざまな教えを学びました。
そして、サンスクリット語の経典657部、仏舎利(ぶっしゃり)150粒などを携えて、往路とは別ルートをたどり、645年に長安に帰還しました。実に16年に及ぶ大旅行でした。
長安では、唐の第2代皇帝・太宗の歓迎を受け、あなたは、論・律・経という三部経を全部マスターした人なので、三蔵法師と名乗りなさいと言われます。
なお、経(きょう)はお釈迦様からの教え、律(りつ)は、戒律(かいりつ)、論(ろん)は、お釈迦様の教えの解釈のことです。
玄奘は、旅行記「大唐西域記(だいとうさいいきき)」を編纂(へんさん)しました。
これをもとに後に明の時代に編(あ)まれた冒険物語が「西遊記」です。
ですので、西遊記の登場人物として、三蔵法師という名前が使われていますが、旅の後に皇帝から与えられた名前のため、旅をしている間は、その様な呼び名はなかったので、実際は玄奘という呼び方が正当です。
玄奘がインドから持ち帰った経典を翻訳するために国家プロジェクトがつくられ、大慈恩寺(だいじおんじ)が建てられました。さらに経典を納めるために大雁塔(だいがんとう)が建立(こんりゅう)されました。
帰国後の玄奘はインドから持ち帰った経典の翻訳に専念しました。
そして、かつての鳩摩羅什(くまらじゅう)らの漢訳経典を旧訳、玄奘によるものを新訳と呼ぶようになりました。
玄奘が18年かけて翻訳した経典は「大般若波羅密多経(だいはんにゃはらみたきょう)」600巻など、1235巻に及びます。
漢訳をすべて終えて、自分の使命を全うした玄奘は、弟子たちに、この般若心経だけは別格。この般若心経を伝えることは、私達にとって大きな使命であると言い続けて、西暦664年に亡くなりました。
玄奘とは?~まとめ~
1.玄奘とは西暦602年に生まれた唐の長安の僧侶。
2.玄奘の仏教を良くするためには、天竺へ旅する。
3.途中、30程度の国があり、それぞれの国王に教えを頼まれる。
4.それぞれの滞留時間が長く、戻って来るのに16年かかった。
5.唐の第2代皇帝・太宗の歓迎を受け、三蔵法師の名前をいただく。
6.大唐西域記(だいとうさいいきき)」を編纂。
7.のちに西遊記として物語となる。
8.玄奘が18年かけて経典を翻訳(漢訳)。
9.特に大事にしたお経は、般若心経。
いかがでしたか?
玄奘というお坊さん、とてもすごい方でした。
身長2.1Mは、今でもすごい。
きっと、めちゃくちゃかっこいいお坊さんというイメージしていたら、なんだか、西遊記をまた見たくなりました(笑)。
最後まで、お読みいただきありがとうございました。