お寺の修行よりも、絵を描くことが好きで、ある日、懲らしめるためお堂の柱にしばられた雪舟。
ところが、床に落ちた涙で絵を描いたところ、それが見事で、逆に絵を描くことを許されたと言う伝説も持ち主です。
みなさまも、自分の好きな事を仕事にしていきたいと思った時は、雪舟の生涯を知ることで、より多くの学びを得ることができます。
そんな雪舟の生涯をまとめましたので、お読みいただけると嬉しいです。
それでは、どうぞ。
目次
雪舟とは?
備中国(現在の岡山県)の武士の家系に生まれました。
少年時代に近くのお寺に入門しましたが、本当に絵を描くことが好きでやめられず、肝心の修行は二の次でした。
しかし、修行は一所懸命、続けていきました。
青年となったとき、京都の相国寺(しょうこくじ)にいる春林周籐(しゅんりんしゅうとう)を訪ね、10年以上にわたり、本格的に厳しい禅の修行を積みました。
でも、その様な中であっても、絵の研鑽は続けていきました。
次第に禅僧というよりも画僧として名前が知られるようになります。
そして、相国寺を離れて、周防(すおう)の国(現在の山口県)へ旅立ちます。
そこでは、雲谷庵(うんこくあん)を構えて、絵画と禅を統合した画禅一致の生活を送ります。
この頃に、雪舟(せっしゅう)という名前を名乗るようになりました。
雪舟の描く山水画は、興味深い構図になっています。
これは、禅の修行で得た心象風景を加味して描いているからだと思います。
雪舟は、山水画を描くことで、さとりを得ようとしたのです。
また、周防では、当時政治的に勢いのあった大内氏の庇護をうけます。
常栄寺(じょうえいじ)には、大内氏が雪舟に作らせたお庭が今でも残っています。
48歳の時に、山水画の本場である明へ渡航し、3年間経験を積みました。
ちなみに、この遣明使船も大内氏のものでした。
また、この時に明政府の建物である礼部院(れいぶいん)の壁に見事な山水画を描いています。
これが絶賛の評価をもらうことになり、中国五山の筆頭である、天童山景徳禅寺(てんどうさんけいとくぜんじ)から、禅班第一座(ぜんぱんだいいちざ)という高い称号をもらいました。
50歳で日本へ戻ると、周防で7年くらい過ごした後に、現在の大分に移動し、天開図画楼(てんかいとがろう)というアトリエを開いて画業に専念しました。
そして、66歳の時に有名な「四季山水図」を完成。
これは、四季の自然の変化の中に、お釈迦様の世界を見ることで、禅の奥義に達し、さとりを得ようとしたのです。
雪舟は、ライフワークである山水画を書き続け、83歳で亡くなります。
雪舟とは?~まとめ~
雪舟について、まとめてみました。
1.雪舟は、備中国の武士の家系に生まる。
2.近くのお寺で修行をするも絵を描くことに夢中になる。
3.京都の相国寺の春林周籐の元で、厳しい修行をする。
4.修行とともに、絵の研鑽を続ける。
5.画僧として名を知られる。
6.周防へ移り、雲谷庵を構え画禅一致の生活を送る。
7.雪舟と名乗るようになる。
8.48歳で明に渡り、3年間山水画の修行を送る。
9.日本に戻り、大分に移動し、天開図画楼を開く。
10.66歳の時に「四季山水図」を完成。
11.83歳で亡くなる。
いかがでしたか?
好きな趣味を仕事に結びつけた生き方。
現代だからこそ、当たり前のように感じますが、当時の社会では、革新的な考え方であったと思います。
雪舟の生き方大好きです。
最後まで、お読みいただきありがとうございました。